http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/880411.html
阪中 香織 2006-12-20 06:49
私は大学で「死刑」について勉強している。
存続すべきか、それとも廃止すべきか、未だに結論が出ない。
『元刑務官が明かす 死刑のすべて』(文藝春秋、2006年5月)という本を読んだ。これは死刑執行のすべてを知る元看守さんが書いた本だ。
この本によると、死刑執行台に上るまでの死刑囚は確実に怯え、死の恐怖に襲われる。
獄中で執行を待つまでの間に宗教の信仰に目覚める者もおり、
本当に改心したような活動をすることもよくあるらしい。
改心した死刑囚の中には「死刑に服して、少しでも遺族の皆さんの心の傷が癒えるなら」という者もいるそうだ。
「死」を目前にして、自らの過ちに気づき、少しでも罪が償えるようにと内職して、遺族への償い代として納めたりする。聖書を開き、祈りを唱える者もいるという。
そのような改心した死刑囚を知るたびに「死刑執行はやめるべきだ」と言う声が強まる。
そもそも悪いやつは殺せ、という目には目を的な考えには残酷な側面があるし、
何の解決にもならない。
そう思ったのは、2年前に死刑執行された宅間守のことを思ったからだ。宅間は01年6月に大阪教育大附属池田小で8人もの子供の命を奪った、まれに見る残虐な人間だ。
宅間は反省するどころか公判でも遺族に暴言を吐いたりした。「死刑にしてほしい」と訴え、大阪地裁による死刑判決に対して弁護団がした控訴を自ら取り下げた。そして、普通なら宣告から15年ほど経ってから執行される死刑が、宅間の場合は判決の約1年後に執行されたのだ。私はこういう場合において、死刑を「逃げ」と感じる。
これまで見てきたように、死刑は残酷で、何の解決にもならず、ときに「逃げ」にも使われてしまう。しかし、以上のことすべてを考慮しても「死刑執行はやめるべきだ」と、私ははっきりと言うことが出来ない。
http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003030
に関連して。
監獄では、受刑者にレンガを焼かせたり、壁を塗らせたり、畑を耕させたりした。
強制された苦役であっても、その仕事には目的があった。
働けば食料が生産され、家が建ってゆく。
自分の働く意味を見出せるから、苦しくとも耐えてゆける。
立派に仕上げようという気さえ起こす。
ところが、たとえば、水をひとつの桶から他の桶に移し、
またそれをもとの桶にもどすとか、砂を搗くとか、
土の山を1つの場所からほかの場所へ移し、
またそれをもとにもどすとかいう作業をさせたら、
囚人はおそらく、4、5日もしたら首をくくってしまうだろう
「もっとも残酷な刑罰は、徹底的に無益で無意味な労働をさせることだ」
人生またしかり、無意味な人生、目的のない人生ほど恐ろしいものは
ないのです。
「カラマーゾフの兄弟」には次のようにも記しています。
何のために生きるのかと言う確固たる意識がなければ、
そのまわりにたとえパンの山を積まれても、
人間は…この地上にとどまるよりは、
むしろ自殺の道を選ぶに違いない。
目的なきことの何と恐ろしきことか!
以上、
http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/24136a5e161050b460af6ce6dee4104b
より。